萌芽


 昼休みは、片瀬望にとって部活の次に待ち遠しい時間となっている。今日も今日とて望はボールを片手に教室を出て行く。彼女の前と後ろには男子が同じように目的の場所へ向かおうとしている。

「今日はあたしがピッチャーやるから!」

 彼女達が近頃昼休みにはまっているのは、ハンドベースだ。その前はサッカー、その前はドッジボールと、共通して激しい運動を伴う球技が主だった。
 望はそういった遊びを男子に紛れて遊ぶ、言ってみれば男勝りとも呼べる女の子だった。

「打てるもんなら打ってみな!」

 そうしていつもの様に気合の入れた球を投げる。彼女の挑発にムキに返す相手が居ないのは、それだけの力を男子が認めている証左だ。
 バシッ、と小気味良い音がキャッチャーの手元から鳴る。道具が借りられない故のハンドベースだから、キャッチャーは素手でやっている。

「少しは加減してくれよ、片瀬」
「それじゃ打たれちゃうじゃん」

 実際、この程度の痛みで根を上げるほどヤワではないと望も分かっている。しかし痛いものは痛いのである。

「全く、すげえ力だよな」
「流石ハーフってか?」
「身体能力って差が出るもんだな」

 こういうとき、望は何も言えなくなってしまう。だからいつも何も無かったかのように、話を進めようとする。

「はいっ、スリーアウト。今度はあたしが打つ番だね」

 そうした機微を読み取れるような男子は、この中には居ない。


 昼休みの帰り、ゴムボールを持って先に帰っていく男子たちを尻目に、望は一人でゆったりと歩きながら帰っていた。
 望は日本人とブラジル人のハーフだ。肌の色をブラジル人の父から色濃く受けた望は、褐色の肌を持ち合わせている。
 コンプレックスと大っぴらに言いたくは無いが、周囲とは違うと意識させる瞬間は、どうにも苦手だった。多感な時期の少女には、男子の(時には女子の)些細な言葉に反応する。幸か不幸か、悪気の無いことを読み取れる彼女には、どうしても強く言おうという意思を育てることができない。瞬間上がる不快感は、途端に萎えてしまう。
 懊悩は行動に現れ、決まって歩みが遅くなってしまう。それに気づけない男子は、単に鈍いだけにすぎないのだが、自分は歯牙にも掛けられない存在なのだと思い込んでしまい、それが余計に口を挟むことを躊躇させていた。
 一人教室に向かう途中、一人の男子生徒と鉢合わせになった。望は彼を見た瞬間に、無自覚に少しだけ顔をしかめる。

「……」

 一方の彼は、別に何事もないように、望の脇をすり抜け教室へと向かっていった。
 いつのまにか歩みを止めていた望は、彼を見送った後に軽く息を吐く。

「なんかよく分かんない人」

 それが、望が彼に抱く感想である。彼の名は伊藤雅人といい、美術部に所属する同級生である。望が普段遊ぶような男子とは違い、彼は昼休みも外には出ずに一人で居ることの多い生徒だった。
 望は、自分と彼は合わない人間だと思っている。交流の幅の広い望ではあるが、女子の大人しい子ならともかく、男子となると中々会話は出来ない。会話もない内に合わない人間だと決定付けるのも、栓のないことなのかもしれない。
 始業のチャイムに気づいて望みは慌てて教室へと向かっていった。悩みはある。けど先送りする以外の選択肢を持っていない。この日の昼休みもまた、一つだけの選択肢を選んで終わることとなった。

「はぁ……」

 サッカー部の活動を終えて、部室から出ようとする時も、望は同様の悩みを抱えていた。

「また、言われちゃった」

 そう呟く彼女の周りには誰もいない。いつも通り歩みが遅くなったが、誰もそれに気づかない。
 自分の身体能力には自信がある。けれどそれを褒められる時に、ハーフであることを持ち出すのは苦手だった。顧問や先輩に底意があるとは思えない。しかし、その事実が決して当事者を傷つけない道理にはならない。
 別にハーフである自分が嫌いな訳ではない。父親も好きだし、自分の肌の色が嫌いなわけでもない。けれど、それが周囲とは違うという意味で言われているような気がして、どうにも距離を感じてしまう。ハーフであることを持ち出される時、常に思うのはそのことだった。
 部室のドアを閉じて、望は廊下を歩いた。夕焼け時の今の時間、陽は廊下と壁と、そして望を赤く染め上げていた。
 望はこの、昼から夜へと移るこの時間があまり好きではなかった。一人でたたずむことの多い自分ではあるが、それを強く実感させるみたいで居心地が悪い。
 並んでいる部屋の内、一つだけ開いているドアがあった。全開とも言えるほど開け放たれた部屋を除くと、見知った顔が伺えた。

「伊藤……?」
「……んあ?」

 返事が返ってくる。予想通り、部屋の中に居たのは雅人だった。

「なんだ片瀬か」

 ちょっとカチンときた。

「ちょっと、なんだ、とはなによ」
「ん、ああ、悪い悪い」

 別に悪気も無さそうに生返事をする雅人。

「で、なにしてんの? こんな所で」
「絵描いてた」

 愛想も無く、即答する。雅人の言うとおり、彼の正面にはイーゼルが置かれ、その向こうにはテーブルの上の置かれたりんごが二つある。

「いつもこんな所で描いてるの?」

 望の言うとおり、少なくともこの部屋はただの部室で、およそ美術をやるのにふさわしい場所ではなかった。

「いや、部活のある日は部室でやるけど、今日は借りれなかった」
「へぇ」
「前にも借りたんだけど、そん時は油絵でやっちゃって、部屋中匂いが付きまくって怒られたよ」

 そんな風に言って笑う。それは望が今まで見たことの無い雅人の姿だった。望はその姿に、自分が運動している時の笑顔を重ねた。
 自然と興味が引かれる。気がつくと望は部屋の中に入り、雅人の下へと向かっていった。
 イーゼルの上には一つの絵が置かれていた。向かいのテーブルにあるりんご二つ。それを描いた絵だ。
 望には絵を鑑識するような学は無い。しかし、雅人の絵を見たときには、ある種の驚きを禁じえなかった。
 水彩で描かれたりんごは二つしかない。けれどそれは、りんご一つとりんご一つと言いたくなる様に、個々の表情を捉えていた。大きさ、色、模様、二つのりんごのそれぞれの個性が紙の上には描かれている。
 しかし何より驚いたのは、その扱われた色だった。美術の授業、買い与えられた絵の具をそのまま使っていた自分には到底出来ないような、りんごのツヤもはっきりと再現できそうな鮮やかな赤がそこにあった。ただ赤いといっても、それには色んな可能性があるのだと、望はこの時に思い知った。

「すごい……」

 無意識の内に漏れたその感想は、それゆえに描き手を満足させる。雅人もまた舌のすべりが良くなる。

「つっても、赤を何度も重ねただけなんだよな、これ」

 頬を掻く。単なる照れ隠しの発言に過ぎないが、それでも望には十分に価値のある言葉となる。

「色って、重ねるとこんなに綺麗になるんだ」

 そういった技術も知らない。今までの望にとって、絵画なんてのは、原色のままべたべた塗る作業に等しかったのだ。

「ん、まあ、な」

 照れ隠しの発言で、またも感激されてしまう。今の望は、雅人の知る活発な彼女と違うような気がして、違和感が出てくる。そうしてまじまじと見つめる内に、やがて雅人は発見した。

「おい、片瀬。ちょっとそっちに立ってくれ」
「え、なに?」

 雅人の急かすような口調に気圧されて、言葉の通りにイーゼルの向こうに立つ。
 イーゼルの脇から、真剣な眼差しで望を見つめる雅人がいる。そのまっすぐな視線に、望はくすぐったくなってくる。

「え、あたしを描くの?」
「ん」

 表情の割に適当な返事。雅人の意識はそれだけ、望の姿に注がれているということになる。不思議と不快感は覚えなかった。

「ああ、悪い、もういい」
「え、ああ、そう」

 どこかたどたどしい返事をする望。自分の調子が崩れているのは自覚していたが、それがどうしてかはわからなかった。

「片瀬ってさ」
「う、うん」
「綺麗な肌してるよな」
「なっ!」

 思っても見ない言葉に、絶句する。

「やっぱ人工の褐色肌と天然の肌だと全然違うもんなんだな」

 そうした分析をする。よくよく観察すれば、望の肌はそれこそ作られたものにありがちな、肌荒れとは無縁であり、瑞々しい肌の上に乗る褐色はそれこそある種の人間が渇望して止まないものだろうと分かる。さらに、その褐色は夕焼けの中で一層に映えていた。
 望はまだ驚きの中にいた。そんな風に褒められたことなんて一度も無いし、何より肌の違いを指摘されたにも関わらず、不快感は全く感じなかったからだ。実際には、違いをダシに褒められる事と、違いを褒められる事は全く違うことなのだが、その違いを弁別できるわけもなかった。

「今度はその色に挑戦するかな」

 こっちはこっちで、絵画以外に関心が行き届かない。今の言葉が望にどれほどの効力を持つのか、自覚しようはずもない。
 終業のチャイムも鳴り、雅人は片付けを始める。望はその姿を見て、我に返る。

「ねえ、あたしを描くの?」
「ん?」

 半ば冗談交じりで言ったつもりの雅人だっただけに、その言葉は驚きだった。実の所、今の印象を目に焼き付けつつ、記憶を頼りに描いてみるつもりだったが、モデルが引き受けてくれるならそれに越したことは無い。本人の預かり知らぬところで進めるのも失礼か、とも思って雅人は聞き返す。

「いいのか?」
「いいよ」

 迷わず返事。自分が何を求めているのか分からないまま、望は雅人に絵を描かれることを求めた。
 その日は約束だけ交わして、校門の前で別れた。望は今までに感じたことの無い高揚感に包まれ、家路を駆けていった。


 あくる日、いつも通り登校してきた望が最初に起こした行動は、雅人の行動を伺うことだった。
 こうやって冷静に眺めてみると、雅人は別に根暗でもなかった。ただ、外に出て動くタイプではないだけで、内気な訳じゃない。望が普段話すタイプの男子とも普通にやり取りをしているし、笑顔を交わす時だってある。自分と違って動かないという点だけで自分が偏見を持っていたようで、恥じ入るように机に突っ伏した。それでもしばらくすればまた、雅人の姿を追っていた。
 約束では、今日の放課後だった。今日はサッカー部は休みだし、美術部も基本強制的な参加義務がないから都合は雅人が合わせることになっていた。放課後、昨日と同じ部屋で雅人と二人、時間を共有する。
 その事実に、望は自分の気持ちが乱れているのが分かった。ただ、絵を描いてもらうだけなんだ。向こうも描きたいみたいだし、ただそれだけなんだ。そう言い聞かせても、落ち着きを取り戻す訳は無い。
 結局その日の午前は、ずっと雅人の姿を目で追いかけていた。
 昼休みになると、流石にいきなり自分が行かないのも不自然と考えて、いつもの男子たちと一緒にハンドベースに出た。しかし、しきりに校舎の二階、自分の教室の窓を気にしていた所為で、どうにも調子が悪かった。

「片瀬でも調子悪いときがあるんだなぁ」

 そんなフォローが、昼休み終わりに肩に投げかけられた。何か言い返そうと思ったが、その通りなのでなにも言えはしない。けど、乱れていることを認めるのは、何か恥ずかしい気がして、せいぜい決まりの悪い顔だけは浮かべていた。そんな望の形相も、気にすんな、の一言で片付けられてしまう。結局、良いとこ無しのままだった。
 やがて放課後を迎える(午後授業をどう過ごしたかなんて言うまでも無い)。まっさきに部室に向かおうとして、望はトイレの前で立ち止まった。中に入り、鏡の前に向かう。

(どこかおかしいとこないかな?)

 活発さをあらわすような短い髪は、今日も黒い艶を保っている。変なところなど何処にもないが、何か気になってしょうがない。傍から見れば、その行動こそがおかしいのだが、当の本人はそれに気づかない。何度もチェックをしている内に、時間を浪費していることに気づき、廊下を駆ける――が、そうして髪が乱れると思い直して、競歩のように不自然な早足になる。
 部室にたどり着くと、雅人は既に待機していた。別に待っていたと言うでもなく、淡々と準備を進めている。

(間に合った)

 安堵の息を漏らして、開かれたドアにノックをして、中に入る。

「おう、今日はありがとな」

 望の姿を認めると、人当たりのよさそうな笑みで迎える。そんな表情もあるんだと、望は何かを発見したかのように雅人を見つめていた。

「ごめん、ちょっと遅れた」

 素っ気無い返事は、緊張の裏返しである。

「別に構わないさ」

 一方の雅人はそういったものとは無縁のように、軽い対応を続けている。自分が一日中望に見続けられていたなんて知る由もないだろう。

「じゃ、その椅子に掛けてくれよ。別に姿勢は好きにしてていいから」
「う、うん」

 雅人のあまりに簡潔なやり取りに、少し物足りなさを感じる自分が居た。同時に、自分が何かを求めているのだと気づく。それは何か。
 考える間もなく、雅人はイーゼルの向かい筆を走らせた。鉛筆が軽快に走っていく。

「なんか、すごい速さ」
「下書きの速さには自信があるんだよ」

 笑顔でそう答える。その笑みは、絵画との対話の中で生まれたものだ。

「……」

 やがて、昨日と同じ勢いに気圧されて、望は黙り込んでしまう。ただ望に理解できなかったのは、昨日と同じように見られていながら、昨日のような高揚感が出てこなかったことだった。
 解が出ないままに、時間は過ぎる。イーゼルと画板の向こうでは、自分には想像も付かない速さで下書きが進んでいく。その速さですらも、望には何か別の意味があるのではと考えてしまい、顔をうつむかせてしまう。

「ごめん、顔だけは上げといて」

 一瞬だけこっちを見て、雅人がそう告げる。絵を描いている時は、他に気が回らないだけなのだが、時に美点となるその集中力は、今の望にとっては何か冷淡さを感じずにはいられない。
 堆積した沈黙が、空気すら濁らせてしまうようで、望は息苦しさを感じた。静かな空間の中で、筆が走る音だけが響く。そんな状況で望は、授業で教わった誰かの俳句が頭の中で浮かぶ。

「……えっと」

 何度話しかけようしたか分からないが、結局未遂のままで終わっている。何度目かの失敗の後に、やがて望は冷静さを取り戻した。
 まず始めに気づいたのが、気まずさを感じているのは自分だけ、という事実だった。何か居心地が悪いと感じているのは自分だけで、雅人はおそらくそんなことを考えてはいないだろう。しかし、同時に自分がこの場から立ち去りたいとも思ってないことも気づいていた。そうした二つの事実を照らし合わせて、自分が「雅人に」話しかけたいのだと気づく。

(そうか、私は)

 自分の気持ちを自覚する瞬間が来る。それは同時に自分の惨めさを自覚する瞬間でもあった。
 肌の綺麗さを褒められた昨日と、それだけで満足できない今日。底意や下心の無い褒め言葉は、人の胸を打つ時もあるが、今の望にあってはむしろ褒め言葉以上に欲しいものがあったのだ。

(私、馬鹿みたい。一人で浮かれて……)

 少女らしい気持ちの萌芽は、望を一層脆くさせていった。
 耐え切れず、涙腺が緩んでいく。頬を滑る水滴の感触に気づいたが、止められない。泣き崩れるのだけはみっともないと、必死に顔は上げたままで表情も崩さない。けれど体の震えだけはとまらなかった。
 直ぐに雅人に気づかれるだろうと望は思う。だから望は考える。
――どうか、そのときくらいは、女の子として心配してくれますように。
 生まれたばかりの少女らしい打算さをもって、望はそれだけを願っていた。